ギャンブル依存症体験談 その④
こんにちは!ギャンブル依存症体験談も第4回で今回が最後になります。最後のテーマは施設入所と回復への奮闘になります。
目次
依存症回復施設に入所
仕事かギャンブルかという生活に終止符を打つことになるのは23歳の夏、7月のことでした。母親からご飯に誘われて、ファミリーレストランに呼び出されました。家族とはたまに会う程度で、急に誘われて少し違和感がありましたがおごってもらえるならいいかということで待ち合わせ場所に行きました。
二人で向かい合ってご飯を食べていた時に、まったく知らない方が二人やってきて急に席に座り始めました。私はびっくりしましたが、母親は動じていない。そして二人から告げられる施設のスタッフですの一言。はめられた!と思っていると母親から「これ以上ギャンブルで苦しんでいるあなたを見ていられない。施設に入って回復して欲しい。」と言われました。
私は「そんなもん自分の勝手やろ。ほっといてくれ。」と言いましたが、施設のスタッフから何点か質問をされました。
「このままでいいと思っているの?」「ギャンブルやめたいと思ったことはない?」「今ギャンブル以外にやりたいことやってみたいことはあるの?」「楽になりたくない?」
最初は面倒くさいな、早く帰りたいなと思っていましたが、私も心の奥底ではこのままではいけない、ギャンブルをやめたほうがいいということはわかっていました。なのでいつしか施設のスタッフと正面から話し合うようになっていました。
徐々にギャンブルやめようかな、施設に行ったほうがいいかなと心に変化が起こっていましたがまだ決心はできずに悩んでいるときにふと頭の中に将来の映像が流れてきました。
このままギャンブルをやめずに生きていったとき、30歳、40歳、50歳と一人ワンルームで寂しく暮らしながら楽しみはギャンブルのみ。そんな光景が思い浮かんだとき、ギャンブルをやめようと決心し母親とスタッフ二人に「わかりました。ギャンブルやめます。施設に行きます。」と伝えました。
家に帰って荷物を用意したいと言うと、そこで気が変わって逃げる可能性があるからダメと言われて、財布とスマホだけをもって拉致されるような形でスタッフの車に乗り、奈良へと向かいました。
回復への道のり
私が入所した施設は平日の朝から夕方までプログラムを受けるデイケアセンターと寮生活をするナイトケアセンターがある施設でした。施設に繋がった日が日曜日なのもあり、事務所で所持制限のあるスマホを預けてから寮へと向かいました。
人付き合いが苦手な私は緊張した面持ちで寮に入りました。すると、今日新しい仲間が来ると聞いていた寮生が玄関にやってきてようこそ!と笑顔で私にハグをしてきました。突然の歓迎に戸惑いと少しの恐れがありましたが、皆さん楽しそうで少し緊張が解けたことを覚えています。
施設での生活は私が予想していた生活とは異なりました。監獄のような場所をイメージしていましたが、皆さんのびのびと過ごしていて私も次第に馴染んでいき、もう一度学校に入り直して人生の勉強をしているような感覚でした。
教えてもらうプログラムにより依存症の知識を得て、集団生活で人間関係の構築を学ぶ。最初は順風満帆でしたが、徐々に自分の欠点が浮き彫りになり今まで目を逸らしてきた部分と向き合わなくてはならなくなりました。
最初の挫折は段階申請という場で起きました。私が入所した施設には段階制度を採用しており、段階が上がると制限が解除されていくものでした。携帯が所持可能になったり、所持金が多く持てるようになったり、サポートされる側からサポートする側に回るなどが段階が上がるたびに変わっていくというものでした。
基本的にはスタッフからの承認を経て段階が上がっていくのですが、一度だけスタッフと仲間全員からの承認が必要だったのです。そして、仲間から普段自分を変える為に取り組んでいることや、現在の心境、これからどうしていきたいかなどを質疑応答し、その様子を見て全員から承認をもらう必要がありました。
私は一度申請をした際にまだやり残したことがあるということで承認を得れませんでした。そこで提案されたのは感情ノートというもので、日常の些細なことでもいいから何か感情が動いたときにメモをしてそれを仲間とシェアしてくださいというものでした。
依存症をやめていく中で自分の感情をないがしろにしていると、それがいつか爆発してまた以前のような衝動的な行動に走りギャンブルや借金へと戻ってしまうので、自身の感情と向き合うことは大切と教わっていました。しかし、幼いころから優等生で、機械のように周りに合わせていた私にとって感情と向き合うことはとても面倒でしんどさを伴うものでした。
一度目の段階申請でダメだったので心の中では渋々という感じで一応感情ノートに取り組みましたが、そこを普段よく見ている仲間は見逃しませんでした。
二度目の段階申請の時に「前回指摘された感情と向き合いました。感情ノートやりました。」と答えましたが、仲間からの指摘でボロが出てきます。日記のように感情を書いてはいましたが、誰ともシェアしてはいなかったのです。
これも子供のころからの癖で、わがままを言うと怒られるという恐れが根強く残っていた私にとって人に相談する、お願いをするということはとても勇気がいることでした。私自身真剣に誰かにお願いや相談を聞いてもらったことはその時までありませんでした。ずっと何とか自分で対処しようと努力し、自分の容量を超えるとミスをして怒られるという失態をずっと繰り返えしていたのです。
二度目の段階申請も落ちたときは耐えられませんでした。その場でふさぎ込んでしまうほどでした。そして、最後に一言を求められたときに、私を承認しなかった人が苦しめばいいと暴言を吐いてしまうほどでした。
私は終わったと思いました。今まで頑張ってきたけどもういいやとも思いました。これだけ言ってしまったしみんなに見放されたに違いない、これからどうしようとも思いました。
そんなふさぎ込んでいる私にある仲間はこう声をかけてくれました。
「やっと本当のショウマを見せてくれたね。それでいいよ。お疲れさん。」
私はこの一言でハッとしました。苦し紛れの暴言でしたが、私の奥底には優等生のようにいい顔をして振舞っていても常に人を見下して蔑んでいる自分がいました。そして、その自分は誰にも見せたことはありませんでした。
この一件で私は本当に仲間のことを信頼できるようになりました。同じ苦しみを分かち合っていてもどこかうわべだけの付き合い方をしていたのですが、仲間の中でならどんな自分もさらけ出せるようになったのです。
仲間の言葉に救われた私は、その日の夜から寮に帰って感情ノートを仲間とシェアするようになりました。この時に言われた「ショウマのいいところはそうやってすぐに行動できる素直なところだね。」という言葉は今でも大切にしていて、依存症からの回復のキーワードの一つでもあると思っています。
この取り組みを認められ、三度目の段階申請でようやく仲間からOKをもらえた時はとてもうれしかったことを覚えています。そして、この経験のおかげで人に相談をしたりお願いを聞いてもらうことに対する抵抗が減りました。今でも緊張しますし、自分で抱え込もうとしてしまう時がありますが、相談したほうが解決が早いことや自分ではどうしようもできないこともあると学べたおかげで昔よりとても生きやすくなりました。
次の挫折は埋め合わせの時でした。プログラムの一つで、自分の欠点と過去の過ちを心の底から認めることができたときに初めて埋め合わせとして、過去ギャンブル依存が原因で傷つけた人に直接謝罪をするというものです。許すか許さないかは相手が決めることですが、依存症当事者もキチンと謝罪しないままうやむやにしても次に進めないからです。もちろん謝罪をすることで再度過去の嫌なことを思い出して傷つけてしまう可能性がある方には埋め合わせはしません。
私の一番最初の埋め合わせの相手は母親に電話で行うことになったのですが、誠心誠意謝ることよりも許してほしい、見捨てないでほしいという気持ちが先走ってしまい、なんと謝罪をしながらウソ泣きをしてしまったのです。それと同時に電話が切れました。
私はなんてことをしてしまったんだと青ざめ、スタッフに相談したときに母親への申し訳ない気持ちで初めて本当の涙が出てきました。
もう一度電話を掛けたときに母親は電波が悪かったと言っていましたが、私に気を使ってくれたのかどうかはわかりません。ただ、一度失敗をしたことで本心から謝ることができました。
この経験は人としての誠意や、謝罪の意味、そして許してくれる方々への感謝という気持ちを学べたと思います。
施設に入って9ヵ月ほど経ったとき、スタッフから急に呼び出されアメリカに行きたいか?と言われました。私は何のことか分からず固まっていましたが、事情を聞くと奈良の施設のモデルになったアメリカの依存症回復施設に研修で行くことになりそのメンバーの一人に推薦されたとのこと。お金は母親が出してくれるとのことでした。今まで海外に行ったことがなかったのですが、不安よりも好奇心が勝りアメリカへ研修に行くことになりました。
アメリカでの体験は自分の価値観を変えてくれました。薬物依存症者やアルコール依存症者が多くて体が自分より一回りも二回りも大きい方々。元マフィアの方もいました。しかし、同じ依存症者ということで笑顔でハグができました。言葉はわからなくても通じ合えるものがありました。
たくさん学んだ中でも特に印象に残っていることが二つあり、それらは今でも生きていく中でとても大事にしています。
一つ目は幼い自分を大事にしてくださいと言われたことです。自分の中にある無邪気なところ、勇敢なところ、恐れ知らずなところ、やんちゃなところ、わがままなところ、全てあなたの中にあります。ですが、大人になるにつれてないがしろにされて置き去りにされてしまいます。そんな自分を愛してあげてください。大切にしてあげてくださいと言われたときにとても感動したのを覚えています。それは子供のころに自分が置いてきたものたちでした。周りに合わせて怒られないように大人のように落ち着いて振舞う。でも本当はわがままを言いたかった、いたずらをしたかった。そんな自分を丸ごと包むかのようなその言葉に救われたような気がします。
もう一つはスウェットロッジという独特のプログラムで、アメリカの先住民ネイティブアメリカンの伝統的な歌を真っ暗なテントの中で歌うというものです。そして、焚火で焼かれた石を中に入れていき、水をかけてサウナ状態にするというものでした。外は毛布で覆われているので中は真っ暗です。狭い、暗い、熱い、苦しい。最後の石が入れられるまでプログラムは続くのですが、今回は初めてでゲストということもあって辛かったら途中で抜けてもよいと言われました。
いざ始まると想像の何倍も熱さと苦しさがありました。そして先住民の方に続いて歌うので、どんどん酸欠状態になっていきます。何人かが脱落していく中、私も出たくてしょうがなかったですが、ここで出たら何も得られない気がすると感じてまさに死に物狂いで歌い耐え抜きました。
プログラムが終わり外に出たときはフラフラで、まともに歩くこともできませんでした。ゆっくり呼吸をしながら空に向かって大の字に寝転んだ時、満天の星空が目の前に飛び込んできました。朦朧とする意識の中僕は宇宙と繋がっている感覚がありました。自分はなんてちっぽけな存在なんだろう。この壮大な宇宙の中の自分一人なんて無いのと同じくらい小さい。そう考えると普段の悩みなんて全然気にならないなと思いました。あと、本当に死にかけたので、生きててよかったなとも思いました。依存症で一番苦しかったころ、自殺しようとしていた自分がです。それくらい人生観が変わるプログラムで、今でも辛い時はその時を思い出し自分を見つめ直しています。
他にもたくさん印象的なことはありましたが、一連を通して自分の価値観・人生観を180度変えるほどいい経験をさせてもらいました。今までギャンブルをやめ続けていられるのもこの経験のおかげだと自信をもって言えます。
ただそれほどいい経験をしてもすぐに人生が好転するほど甘くはありません。長年培ってきた癖というものはやっかいでサボりがちな部分や、嘘をついてしまう部分、人に厳しく思ってしまう部分などまだまだ欠点は山積みでした。
研修から帰ってきて、プログラムも一通り完了して就労に進むかという頃、スタッフから一緒にやらないかと誘われました。傍目に大変そうにしているのを見ていたので、その場は断りましたが内心誘ってくれたことはうれしかったです。
私は施設に入所する前からやってみたいと思っていた車の仕事に就きたかったのですが、その時このまま施設を卒業して社会復帰してもこれ以上回復できないのではないか?またつまらない人生に戻ってしまうのではないかと感じていました。
しばらく悩み、仲間やスタッフと相談した結果、いい経験になるだろうということで依存症施設のスタッフとしてプログラムを受ける側から提供する側に回りました。ここから今までにはなかった悩みや苦労を経てさらに自分の成長に繋がります。
昨日まで同じ仲間だったのに、スタッフになった瞬間職員として一枚壁を感じる接し方をされることに戸惑いました。また、自分も同じなのですがなんといっても依存症者は面倒くさい性格の人しかいません。文句を言われたりいちゃもんをつけられたりして何度もお前の問題やろ!と言いたくなりました。しかし、援助をする、サポートするということはどういうことかを何度も悩みながら教えてもらうことで人間としての余裕が出てきました。そして、昔自分がプログラムに取り組んでいるときに優しく丁寧に接してくれたスタッフの凄さに感動しました。
自分がスタッフとして関わっていく中で依存症者との向き合い方として、一人一人がややこしい経歴と性格なのですが、その一人一人に合わせたサポートが必要だなと感じました。マニュアル化した対応の仕方ではなく、その人個人個人の生き方に焦点を当てて、寄り添いながら対話していくことで心を開いて話し合える関係を作る。その信頼関係がないと心をふさいだ依存症者は誰の意見も聞き入れない。それは自分自身も同じ依存症者だからこそわかるところもありました。なので人それぞれ回復のペースや中には諦めてまた再使用してしまう仲間もいましたが、明日の自分かもしれないと自分も身をつまされる思いになりますし、決してそういった仲間を馬鹿にしたり見放したりしませんでした。
たくさんの経験を施設で得て3年経ったころには自信もついてきたので社会に復帰する決意をします。ギャンブルで諦めていた目標である車の仕事として一から整備士に挑戦することになりました。
とはいえ、そのころ年齢は26歳で経験はなし。就活は難航するかと覚悟していましたが、縁があって1回目の面接で採用していただき、夢の仕事を実現することで施設を卒業し社会復帰を果たしました。
回復の旅は続いていく
施設を卒業してから今年(2022年)で6年になります。私の生活環境も変わりました。奈良から大阪に引っ越しましたし、仕事も転職しました。
しかし、ギャンブルは一度もしていません。
ただ、生活がバラ色にもなっていません。まだまだ借金は返済中ですし、決して裕福とは言えません。貯金もほとんどないままの生活を続けていてお金に悩まされる日々です。
それでもギャンブルをしようとは思いません。ギャンブルをしても解決にならないことはわかっていますし、以前のような絶望に沈んだ毎日に戻りたくないという気持ちが強いです。それに、支えてくれたたくさんの方々を裏切りたくないという思いもありますし、何よりギャンブルをしていたころよりも生きていくことが楽しいです。
まだまだ生活に苦しんでいるので悩みは尽きませんが、一度死にたいほど辛かったところから立ち直ったのでそんな悩みも何とかなるさと前向きに行動していけてます。
今私はASK認定依存症アドバイザーという資格を持っているので、全国各地にメッセージを届ける活動をしています。ゆくゆくはもっとたくさんの依存症に苦しむ方々を支援できるようになりたいと思っています。
それは、自分が初めて回復に繋がったころにやってもらったことの恩返しだと思っています。そして、その誰かの手助けをすることこそが回復のプログラムの最後のステップなのです。
自分さえよければではなく、自分に与えてもらったギフトを今度は新たな依存症に苦しむ仲間に手渡していく。そして、その仲間たちが回復してまた新たな仲間に手渡していく。そういった回復の連鎖が今まで伝わってきたのですが、まだまだ依存症に苦しむ方のほうが多いのが実情です。
これからも自分の回復を大切にしつつたくさんのメッセージを届けていけるように頑張りたいと思います。
以上が私のギャンブル依存症の体験談です。全4回にわたってお伝えしてきましたが、いかがでしたでしょうか。読んでいただいた方の周りに今依存症で苦しんでいる方がいれば一度紹介してみてください。
悩んでいるのは自分だけではなかったんだと思っていただけたら書いた意味もあったというものです。
次回からは具体的に依存症に関する知識であったり、セミナーやイベントの情報などをアップしていきたいと思っていますのでよかったらまた見てください。
それでは、また!