ギャンブル依存症体験談 その③

こんにちは!ギャンブル依存症体験談第3回はギャンブル依存症という病気と宣告され、そこから回復に繋がるまでの過程をお伝えしたいと思います。

目次

ギャンブル依存症という病気を知る

大学1年目で19歳のころ、ギャンブルで人生はめちゃくちゃになっていました。家族にも迷惑をかけていましたので、母親には怒られっぱなしでした。私の心はもう完全に機能していなかったので、怒られてもなんとも思いませんでした。母親と父親と夜中話し合いの場を設けられましたが、両親に問い詰められても私は一言も発さずうつむいた状態で3時間が過ぎてお開きになるということもありました。

実は父親もギャンブルで過去にたくさん問題を起こしており、夫婦喧嘩をすることもよくあったようで、母親は夫だけでなく息子もギャンブルで問題を起こすのはおかしい、何かあるに違いないと思いインターネットで調べたときにギャンブル依存症という病気の存在を知りました。そこからの行動はとても早かったです。母親は息子の私を助けたいという一心で動いていたと思います。私は大阪でギャンブル依存症を扱う心療内科に連れていかれました。

その時の私の心境はめんどくさいな・・・という感じでしたが、逆らう気力もなかったので黙ってついていきました。

先生と面談した後に私がギャンブル依存症であり脳の病気になっていると告げられました。その時に少しホッとしたことを覚えています。ずっと自分がダメ人間でどうしようもない存在と思っていましたので、病気でそういう状態になっているだけだよと言われたことにとても救われた感覚になりました。そして、回復の手段としてGA(ギャンブラーズアノニマス)という自助グループをおススメされました。

自助グループは同じ境遇の悩みを抱えた人たちが集まり、各々の体験談や失敗談、成功体験を話したり聞いたりする場所です。そこには仲間しかいないので、お互いに助け合いながら依存症の克服を目指すというものです。詳しくはまた別の回に説明しますが、公式サイトのURLを張っておきますので気になる方は覗いてみてください。

その情報を聞いた母親はすぐに近くでやっているGAを探し私を連れて行きました。肝心の私はカウンセリングでギャンブル依存症という病気だと知ってホッとはしたものの、ギャンブルをやめないといけないということには拒絶している状態でした。

初めていったGAは大阪市内のグループでした。公民館を使って夜中に開催しているグループで、入るときにめちゃくちゃ怖かった思い出があります。というのも始まる前の時間だったので、入口にある喫煙所でおじさんたちがたむろして談笑していたからです。ギャンブル依存症者が集まる場所ということで私はガラの悪い人たちが集まる場所と勝手にイメージしてたので恐怖心はなおさらでした。

円卓に並べられた机と椅子。適当に座ってくださいと促され空いてるところに座り、車を停めに行っていた母親も遅れて私の横に座りました。

初めてのGAは今でも鮮明に覚えています。初めての仲間が繋がったということでみんなで話し合うテーマを「私のギャンブルの歴史」にしてくれました。会が始まりみなさんの話を聞いていく中で、今まで経験したことが同じようにみなさんされている。この悩みを抱えているのは自分だけではなかったんだ、という気持ちになりました。しかし、そこで回復しよう!頑張ろう!という気持ちにはなりませんでした。というのも、周りの方々が自分より一回りも二回りも年が離れていて、なおかつ借金のエピソードが桁違いで自分もそうなるかもしれないから気を付けようではなく、まだ自分は大丈夫だなという捉え方をしてしまったのです。今振り返って考えると、まだギャンブルをやめようと心の底から思っていなかったのだと思います。もちろん100%やめたいと思っていなくても回復を始めることはできますが、その時の私はまだまだギャンブルをやりたい気持ちでいっぱいでした。仲間に促されて少しだけ話をしましたが、「みなさんの話を聞いて自分だけではないと思いました。回復目指して頑張ります。」と思ってもいない嘘の綺麗事を話して初めてのGAは終わりました。帰る道中母親に「どうやった?」と聞かれて、私は「まだギャンブルをやめたくない。」と言えるわけもなく、「よかった。また行ってみたい。」とまた嘘を言ってしまいます。初めてGAに繋がった仲間に記念として赤色のキーチェーンを渡してくれるのですが、家に帰ってから家の前のある池に投げ捨ててしまいました。

その後、奈良のGAにも連れていかれます。そこでは依存症者の支援施設も運営しており、私に施設に入所することも勧められました。施設なんて入ってしまえば人生の終わりだと思っていたので、頑なに断りました。その代わりにそこで開催されているGAに参加すると約束してその場は終わりましたが、結局1,2回参加してから行かなくなりました。

私はなにも変わることなく終わってしまうのですが、母親が先に回復に繋がることになりました。奈良のGAに一緒に行った時に、家族は家族の自助グループのギャマノンというものがありそちらに参加することを勧められるのです。

夫と息子という二人のギャンブラーに悩まされていた母親は、ギャマノンで仲間と出会いギャンブラー本人には言えなかった鬱憤や悩みを打ち明けることでとてもスッキリしたそうです。そして、経験のある仲間からどう対応するのが良いのかなどアドバイスを聞くことで、私に対する接し方も変わっていきました。

私は何の変化もなくギャンブルを続けていました。その時は高校卒業までお世話になっていた進学塾でアルバイトをしていましたので、大学には行かずにバイトをしているか、ギャンブルをしているか、家にいているかという生活でした。

ギャンブル依存症と診断されてGAに始めていったのは大学1年目の冬でした。そのまま2年目に突入しますが、大学に行くことはありませんでした。このままでは学費がもったいない、奨学金の借金は膨らむだけということで続けるかやめるかの話し合いを夏休みにして私はやめることを決めました。

自立を促される

20歳の夏に大学を中退し、アルバイトから契約社員として進学塾で働くことになった年の冬に母親からこう言われました。

「奈良の施設に入るか一人暮らしをするか選んで。来年春までにはこの家から出て行ってもらうから。」

穏やかな口調で放たれた言葉には確かな意思を感じました。家族会のギャマノンで仲間からそういう風にアプローチをするのが良いとアドバイスをされたそうです(後に母親から聞きました)。私はその気迫に押されて「わかった。」と言う他ありませんでした。

春までと猶予はもらえたものの、お金もないし今まで親に甘えて生活していたので一人暮らしの住処を決めることも自分でできませんでした。職場の社長になんとか手伝ってもらい契約までは進めたのですが、肝心の初期費用が貯まっていませんでした。必要な額は8万円。3月に家を出る約束をしていて2月末の時点で所持金が3万円。更に契約した賃貸の初期費用の振り込み期限もあと1週間となっていました。そんな自分が思いつく解決策といえばギャンブルしかありませんでした。私は全財産の3万円を握りしめ、パチンコ屋に向かいました。すぐに2万円を失い半泣きになっているときにようやく大当たりを引き、そこから大当たりを繰り返し最終的には8万円勝つことができその日のうちに振り込みました。生き残った!と心底喜びました。

初めての一人暮らし

紆余曲折はありましたがなんとか初めての一人暮らしを始めることができました。出ていけと言われたときは戸惑いしかありませんでしたが、いざ一人になると親の呪縛から離れられた!とウキウキしていた現金な私でした。しかし、ギャンブル依存症という病気を患っているわけですから一人暮らしが上手くいくはずもありませんでした。

その時のひと月の給料が手取りで13万円。家賃は4万円。その他食費や光熱費、携帯代などすべて合わせても10万円あれば生活でき、残りはおこづかいか貯金というやりくりができるはずでした。しかし、給料日の翌日僕は給料袋を握りしめパチンコ屋に吸い込まれていきました。結果はマイナス9万円。一人暮らしを始めたその月から家賃を滞納することになりました。

その月の生活は本当にしんどかったです。半月以上買っておいたお米を炊いて塩をかけて食べる生活でした。流石にこのままでは死んでしまうと思ったので、その翌月から半年間自力でギャンブルが止まりました。

半年経って家賃もしっかり払えるようになり、貯金も少しばかりできるようになった頃、ちょうど私がハマっていたスロット台の新作が出ることを知り、お金に余裕もあったし半年間ギャンブルせずにいれたのでもう自分は大丈夫だろうと思ってまたパチンコ屋に行くようになります。

元の生活に戻るのに時間はかかりませんでした。20万あった貯金は一週間でなくなり、そのころ20歳で借金ができるようになっていたので、気が付けば消費者金融の無人契約機に飛び込んでいました。緊張しながら契約を終え、キャッシングカードを受け取るとすぐにパチンコ屋に戻り借りたお金でギャンブルをしました。1ヵ月もかからないうちに限度額一杯まで借金を作ってしまい、また昔のように自分を責める生活に戻ってしまいます。

一度死にかけた経験があるので、所持金がなくなるまで賭けることはありませんでしたが、そこからは毎月利子だけを返済する生活となりました。ギャンブルも一度半年やめた経験があるので、少しはセーブできるようになりましたがやめようとは思えませんでした。

結局20歳の春に一人暮らしを始めてから施設に入る23歳の夏までずっと同じような生活をしていました。塾の仕事なので働くのは夕方から深夜まで、朝と昼はギャンブルをしてまた仕事に行って・・・。借金は一向に減らず自分が夢に思っていた車関係の仕事をするための努力もせずなんの変哲もない一日を過ごす毎日。その時の自分にとっての生きがいはギャンブルしかありませんでした。死にたいとまでは思いませんでしたが、ずっとうつむいて生活をしていました。

そしてそんな私にまたしても母親が手を差し伸べてくれます。

次回第4回は依存症回復施設に入所し回復していく過程のお話になります。お楽しみに!

それでは、また!

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